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2016/02/16

「三國志 第十二巻」

はぁ~、長きに亘って読んできた宮城谷昌光版book、いよいよラスト1巻end。三国がついに「晋」に統一される直前のこの巻では、司馬昭の卓越した人物像が全開でしたgood


蜀の劉禅クンはおバカさんだしcoldsweats01、呉の孫権はモーロクジジィだしsad、そんな中、魏の司馬昭がナイスなヒトなんだったらもう司馬チームが自然に勝っちゃうわけよね~smile。宮城谷さんの筆も、曹操を描くとき以来の、敬愛heart02が滲み出るカンジだしsmile。『司馬昭はふしぎな人で、自分の力を増大するために、みずからしかけたことはほとんどない。司馬氏一門の棟梁になったのも、兄の司馬師が急死したためで、みずから望んだわけではない。諸葛誕が寿春で叛乱を起こした際も、苛烈な兵略をいっさい用いず、ただ城をゆったりと包囲しただけであり、降伏する敵の将士をつぎつぎに赦して、死者をふやさず、首謀者である諸葛誕を斬ったあとも、叛乱を主導した者しか罰しなかった。その後、天子の曹髦を殺したことは、司馬昭にとって生涯の負い目となったが、そこに策謀のなまぐささはなかったとみたい。蜀の征伐においても、無理がなく、どちらかといえば蜀が自滅したようにみえる。その下におどろくべき計算がかくされていたとすれば、司馬昭は無類の策謀家である。だが、どれほど巧妙な策謀でも、策謀とはかならずおのれを傷つける諸刃の剣である。その剣をもって、天下を従えることはできない。』なんかホメすぎだけど~~smile


さてこの大長編のラスト、この第1巻の冒頭で登場した「四知」に呼応して終わるのがまたカッコイイlovely。『自分がどのように生きて、なにをおこなったかを知っているのは、天と地と我という三知で充分ではないか、と司馬昭はおもうときがある。だが、人には「子(なんじ)」という存在が、必要なのかもしれない。この存在がなければ、物語も歴史も、ありえない。』この小説との見事な呼応shine


衛瓘は望楼に登って、蜀の天地を観た。往時、西方の覇者となった公孫述はこの地にあって天子と称したが、光武帝につかわされた将軍の呉漢によって滅ぼされた。また、荊州から益州にはいった劉備も、成都に常住して、やはり天子と称した。ここの天地は、人の気宇を壮大にするのであろう。』実は、ドラマcdを観ていても思ったんだけど、「三国志」はこの“中国の大自然”というものがものすごく登場人物たちに影響を与えてると思うのよ~~confident。自然の規模がデカすぎなんだもんcoldsweats02。地理的移動なんかあっさり描かれてるけど、地図を眺めるともー恐ろしいまでの長距離shock。しかも平坦な場所ばかりじゃないしfujiwave。こんな中で闘いimpactを繰り広げてりゃ、そりゃ「中華思想」も生まれるわな~~ってカンジcoldsweats01


というわけで、独特の風合いを持つ宮城谷版「三国志」読了いたしましたが、客観的事実を元にした物語でもやっぱり人物たちの個性はそれぞれ際立ってるしshine、2000年近い昔も今も、“人間の営み”というものは変わらないものなのね~と改めて思うものですconfident。確か前書きで宮城谷さんは、「演義」との違いを通して見えてくるものがある、と書いていた記憶があるけど、「演義」の無理めな蜀チーム持ち上げupを取り払っても、はやり蜀チームの人間たちには溢れる魅力heart04があって、それを推進力として歴史というものは編まれていくものなのだ、ってことが見えてくるってことだったのかしら~、とわたくし思うわけですconfident


さて、お次は数年前にオトナ買いmoneybagして放置していたcoldsweats01NHK人形劇「三国志」cd、行きますッpunchimpactsign01

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